
2015年12月10日、『シュタインズ・ゲート ゼロ』はPlayStation Vita、PlayStation 4、PlayStation 3向けに発売された。
前作『シュタインズ・ゲート』の“正史”とは異なり、本作が描いたのは牧瀬紅莉栖を救えなかった世界線、すなわちβ世界線での物語だ。
2025年、発売から10周年を迎えた今、改めて振り返りたいのは、この作品が単なる外伝ではなく、シリーズ全体の感情構造を大きく変えた存在だったという点である。
紅莉栖を救わなかった岡部倫太郎から始まる物語
『シュタインズ・ゲート ゼロ』の主人公・岡部倫太郎は、かつてのように高らかに名乗る“鳳凰院凶真”ではない。
紅莉栖を救うために幾度となく世界線を越え、それでも失敗した末に、彼は自ら選んで諦めた。
厨二病的な言動は封印され、ラボも日常もどこか色を失っている。過去の記憶は消えず、フラッシュバックとなって彼を苛み続ける。
本作が全編を通して放つ重苦しさは、前作のギャグと緩急をつけた構成とは明確に異なり、最初から「喪失」を前提にしたトーンで貫かれている。
だからこそ、物語後半で訪れる岡部の変化は、あらかじめ分かっていても胸を打つ。
彼が再び立ち上がるまでの過程を、時間をかけて、逃げも誤魔化しもせず描いたことこそが、『ゼロ』最大の価値だろう。
アマデウス──“救えなかったはずの存在”との再会

物語を大きく動かすのが、人工知能システムAmadeus(アマデウス)の存在だ。
ヴィクトル・コンドリア大学で研究されていたこのシステムには、牧瀬紅莉栖の記憶データがインストールされている。
岡部はテスターとして、スマートフォンのアプリを通じて“アマデウス紅莉栖”と会話を重ねていく。声を担当するのは、前作同様に今井麻美。生身の紅莉栖とは違い、感情や経験に制限がある一方で、彼女らしい理知的な言葉遣いや思考の癖は確かにそこにある。
重要なのは、アマデウスが「代用品」ではないという描かれ方だ。
岡部にとって彼女は救済でもあり、同時に傷口を抉る存在でもある。触れれば触れるほど、失った事実を思い知らされる。それでも彼は対話をやめない。この歪んだ関係性が、『シュタインズ・ゲート ゼロ』の感情的な軸になっている。
比屋定真帆という“もうひとりの可能性”
アマデウスと並んで、物語の空気を一変させるのが比屋定真帆だ。
彼女はヴィクトル・コンドリア大学で紅莉栖と共に研究していた研究者で、外伝小説『閉時曲線のエピグラフ』で先行登場していたキャラクターでもある。
見た目は幼く、生活能力は壊滅的。部屋は荒れ、服装にも無頓着で、いわゆる“残念属性”を多分に抱えている。しかし研究者としての実力と、紅莉栖への複雑な感情は本物だ。
岡部と接する中で見せる皮肉、弱さ、嫉妬、そして誠実さ。
彼女は紅莉栖の代わりではなく、紅莉栖がいなくなった世界だからこそ成立した人物として描かれている。矢作紗友里の演技も相まって、物語に生々しい現実感をもたらしていた。
もうひとりの鍵、椎名かがりの存在
本作では、未来の椎名まゆりの養子である椎名かがりも重要な役割を担う。紅莉栖と酷似した容姿を持つ彼女は、ルートによって立場や行動が大きく変化し、プレイヤーに強い印象を残す。
彼女の正体や役割はネタバレを避けたいが、共通しているのは「β世界線の歪み」を体現する存在であること。彼女の行動がもたらす選択は、岡部だけでなく、プレイヤー自身にも問いを突きつけてくる。
RINEトリガーが生んだ没入感
ゲームシステム面では、ガラケーからスマートフォンへと移行し、RINEトリガーが採用された。メッセージアプリ形式でのやり取りは、リアルタイム性と日常感を強め、物語への没入感を大きく高めている。
スタンプの存在や通知のタイミング一つで、感情が揺さぶられる演出は、『ゼロ』の重たいストーリーと意外なほど相性が良かった。
10年経っても色褪せない“もうひとつの選択”

『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、ヒーローが世界を救う物語ではない。それは救えなかった後に、人がどう生きるのかを描いた作品だ。
アマデウスは過去と向き合うための装置であり、比屋定真帆は失われた未来の隙間を埋める存在であり、岡部倫太郎は、諦めたはずの選択と再び向き合う男だった。
10周年を迎えた今なお、この物語が語られ続ける理由は明確だ。それは『シュタインズ・ゲート ゼロ』が、シリーズの中で最も人間的な痛みと再生を描いた作品だからである。
🔍 なぜ『シュタインズ・ゲート ゼロ』は評価が分かれたのか
『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、シリーズ作品の中でも評価が大きく分かれるタイトルとして知られている。その理由は、単純な出来不出来ではなく、作品が意図的に「爽快感」を削ぎ落としている点にある。
前作『シュタインズ・ゲート』は、絶望的な状況を乗り越え、最後に強烈なカタルシスを与える構成だった。
一方『ゼロ』は、最初から最後まで「負けた後の世界」を描く。成功体験を期待してプレイすると、どうしても重苦しさが先に立つ。
また、岡部が長期間にわたって無力であることも、プレイヤーによってはストレスになる。しかしこれは演出上の欠点ではなく、物語構造そのものが“停滞”を前提にしているためだ。
アマデウスとの対話は希望であると同時に、前進を妨げる鎖でもある。真帆との関係も、支え合いというよりは未整理の感情がぶつかり合う形で描かれる。どのキャラクターも「正しい行動」を取らない。それが現実的であるがゆえに、受け取り手を選ぶ。
しかし10年という時間を経た今、この不完全さこそが『ゼロ』の強度だと感じる人は確実に増えている。失敗し、諦め、立ち止まった先で、それでも選び直すことができるのか。
『シュタインズ・ゲート ゼロ』は、その問いを真正面から投げ続ける作品であり続けている。
