
2026年3月6日に全国公開されるアニメーション映画『花緑青が明ける日に』は、花火、再開発、創作、そして若者の選択を静かに、しかし確かな熱量で描く長編オリジナル作品だ。
俳優・萩原利久と古川琴音が声優初挑戦でW主演を務める点でも注目を集めているが、本作の本質は「幻となった花火」をめぐる2日間の物語にある。
日本画家としての活動を基盤に、アニメーション、CM、ミュージックビデオまで幅広く表現を行ってきた四宮義俊が、原作・脚本・監督を兼任。自身初となる長編アニメーション映画であり、日仏共同製作という制作背景も含め、極めて作家性の高い一本となっている。
■ タイトルに込められた“花緑青”という象徴
本作のタイトルにある「花緑青(はなろくしょう)」とは、かつて花火の材料として用いられていた顔料の名称だ。
燃やすと青く美しく発色する一方、毒性を含むことから使用されなくなり、現在では“幻の存在”となっている。
美しさと引き換えに失われた技術。その危うさと儚さは、作品全体を貫くテーマと強く呼応している。
『花緑青が明ける日に』は、この失われた色を宿す幻の花火「シュハリ」をめぐり、過去と未来、継承と断絶の狭間で揺れる人々の選択を描く物語だ。
■ 物語の舞台は、創業330年の花火工場「帯刀煙火店」

舞台となるのは、海に面した地方都市・二浦市。その一角に、創業330年を誇る花火工場帯刀煙火店がある。
しかし町は再開発の波に飲み込まれ、帯刀煙火店にも立ち退き期限が迫っている。
伝統を守る場所と、変わりゆく町並み。豊かな自然と、むき出しの工事現場が同時に存在する風景は、本作の美術ボードでも象徴的に描かれている。
■ 敬太郎とカオル、4年ぶりの再会から始まる2日間

主人公の敬太郎(萩原利久)は、帯刀煙火店の次男。
蒸発した父親に代わり、幻の花火「シュハリ」を完成させようと、実家にこもって花火づくりに没頭している。
一方、幼なじみのカオル(古川琴音)は地元を離れ、東京の美術系大学へ進学。将来の道を模索しながらも、地元とは距離を置いた生活を送っていた。
そんな彼女のもとへ、敬太郎の兄・千太郎(入野自由)が訪れ、「帯刀煙火店の立ち退き期限が明日に迫っている」と告げる。半ば強引に連れ戻される形で、カオルは4年ぶりに故郷へ帰ることになる。
残された時間は、わずか2日間。この短い時間の中で、彼らは「花火」と「未来」の選択を迫られる。
■ 声優初挑戦の萩原利久と古川琴音が担う“静かな感情”
本作で注目すべき点のひとつが、萩原利久と古川琴音の声優初挑戦だ。
実写作品で培ってきた繊細な表情表現や間の取り方が、アニメーションという形式でどのように立ち上がるのか。
派手なセリフ回しではなく、言葉にしきれない感情の揺れ。再会の気まずさ、創作への焦燥、故郷への複雑な思い。
そうした“音になりにくい感情”をどう表現するかが、本作の大きな見どころとなっている。
■ “忘れられないラスト10分”が示すもの

公開されたメインビジュアルには、「忘れられないラスト10分」というコピーが添えられている。
夜空を見上げる敬太郎とカオルの表情は、力強さと祈りが同時に宿ったようにも見える。
「運命を変える花火を上げたい。」
その言葉が意味するのは、成功や奇跡だけではない。変わらざるを得ない現実を受け入れた上で、それでも選び取る“次の一歩”だ。
■ 四宮義俊という作家が描く、花火と創作の物語
四宮義俊は、日本画家としての感覚を活かし、美術・色彩・作画の中枢を自ら担っている。
本作では、花火という一瞬の光と、絵画のように積み重ねられた時間が交錯する。
さらに、音楽は蓮沼執太。音と光、動きと静止が溶け合う構成は、「アニメーションでしか成立しない表現」を目指したものだと言える。
■ ムビチケ情報と公開スケジュール
『花緑青が明ける日に』は、2026年3月6日(金)全国公開。
2025年12月19日からはムビチケ前売券も発売され、カード特典としてオリジナル“ハナロク”クリアしおり、オンライン特典としてスマホ壁紙3種セットが用意されている。
作品の世界観に触れる入口として、ビジュアルアイテムも見逃せない。
なぜ今、“花火の物語”が描かれるのか
花火は、日本の夏の象徴であると同時に、極めて儚い表現だ。
一瞬で消え、形として残らない。それでも人は、その一瞬を記憶に刻み続ける。
『花緑青が明ける日に』が描くのは、単なる伝統継承の物語ではない。
再開発によって失われていく町、技術として消えた顔料、進学や上京によって変わる人間関係。それらすべてが、「残すこと」と「変わること」の間で揺れる現代の縮図として配置されている。
敬太郎が花火に執着する理由も、カオルが美術を学びながら迷い続ける姿も、決して特別なものではない。
創作に意味を見出したい人、地元を離れたことに後ろめたさを抱く人、何かを続けるべきか迷う人。誰にとっても、どこか自分の物語として重なる余白がある。
“幻の花火”は、失われた過去の象徴ではなく、それでも何かを選び取ろうとする意志そのものなのかもしれない。
夜が明けるとき、彼らは何を手放し、何を掴むのか。その答えは、スクリーンの最後の光の中で示される。

